昭和42年10月14日 朝の御理解
私はこのことは日々その思いをいよいよ強くするのでございますけれども、こうして段々おかげを頂いて参りまして沢山の人がお取次を願われ、沢山の人が難儀の中から救われたり助かりたいという人達がお参りが多くなればなるほど、ほんとに私がそれを思うこと。生神金光大神の御取次、その働きということは勿論のことですけれども、ここでそのお手代わりをさして頂く私。それが私の信心如何で折角の神様がおかげを下さろうとする働き、みんながおかげを頂きたいと願う。その願いと願いとの中にあって、それが邪魔になっておるようなことはなかろうか。取次者として私の信心がかえっておかげの邪魔をしておりようなことはなかろうかと。
これはもう、十何年前に私が神様に申し上げとりますお言葉の中に、先日いろんなものを見よりましたらそん時の私の気持ちがちょいと書き付けておったものを見たのですけれども、例えば取次ということ、神様の世界から氏子の世界、氏子の世界から神様の世界を取り結ぶ、云うなら御結界というのは橋のようなものである。普通で向こうに行こうと思うても行けんのである。けれども、この取次の橋を渡って行けば神様の世界にも行けるのであり又は神様が氏子の世界に働きかけて下さることが出来ると云うのである。
ところが私が承っておるところの御結界というところのお取次というその橋はもう自分で分かる。本当にところどころに穴がほげているような感じの橋である。どうぞ神様、傷だらけ、穴だらけですからどうぞ、ここを通る人がここの壊れた様な橋を通られるように用心さえして渡ってもらえりゃ、又そこでうかつにしてここで落ち込むことがございませんように、この御結界、ここの橋をどうも、暗闇の様に真っ暗である。どうぞ、各々が信心の明かり、信心の提灯を灯してこの橋を通りますように。手摺りが壊れておる、その手摺りから漏れて落ちないように。第一この橋が汚れに汚れ果てております。渡られながら各々が着物を汚したりするようなことがございませんように。どうぞ、落ち込みませんように、怪我しませんように。どうぞ、真っ暗でございますから、迷いませんように。同時に汚れておりますからそれで汚しませんようにというような、もう切々とした私のその本当の実感をですね、神様に、ははあ皆も果たしてこういう実感があるだろうか。私がお取次をしてやっとるけん皆が助かっとるといったようなものがありはせんだろうか、ね。
そん時と今というて別に変わり映えがしとると一つも思えない。信心が出来ておると思えない。であるならば、私のお取次ということが、云わば神様の働きと氏子の願いの間にあって私が大きな邪魔をしておることになる。そういうことであっては相済まない。というて引っ込んどる訳にもいかんのでございますから、ま兎に角そこにお邪魔にならんように、お邪魔になってはいないだろうかと、反省をもって日々こうして御用さして頂いとるわけでございます。
ですから、本当に皆さんやはりそういうように破れ果てた汚れ果てた御結界を橋を通っておられるのですから皆さんも用心なさいませんと落ち込みます。それから漏れます。漏れて落ちます。よっぽど用心してまいりませんと自分の心を汚します。 先日も合楽に御用に行ったら幹部の人がやかましゅう云うたけんで、もう御用に行かんと或る総代さんからお届けがあった。もう私自分のことを云われておるような気がするんです。こういう人はもう私の、いわゆる御結界の橋を渡りながらもう自分の心を汚したんです、ね。私のこの橋がもっと立派であれば良かったんですけれども、橋が本当じゃない為にです、ね。その人達が、云わばその方達もうっかりしておる。日頃頂いておる教え、日頃頂いておる信心をもって頂ければいっちょん問題にならないこと、ね。
そこが信心が若い、信心が出来ておらん。云わば為に誰が何と言った。彼が言うたと云うて心を汚しておる。それはここの橋が立派であれば汚しませんのですけれども、そういうようなことを言ったらお互い用心しあい、お互いが注意しあい本当に信心の光を持っておらなければいけんのでございます。ですから、自分の心を汚したというてもです、あれがあげん言うたから自分が腹が立ったという時にはですね、やはりここにある御結界の橋が不完全であった為にそこから落ちて怪我をしたということになりましょうから、これは私の責任で有ると同時に皆がうかつにして通っておったという責任も又あるわけでございます。昨日も親先生、朝から丁度、十時頃迄もういっぱい御用して下さいました。まあ普通なら二日間でせんならんことを一日でしたけんで大変だった。それに助手が二人もついておってから一日がかりでございました。
そりゃもう親先生でなからにゃ出来ん御用がございますもんですから、その合間合間に親先生が、所謂まほんとにここの信者は行き届いとる、ほんとにみんなそれ持ち場立場で皆しっかり御用が出来ておると言って、褒めて下さったものの果たしてほんとにそうであっただろうかと思うのであります。まだ御大祭をいよいよ奉仕させて頂くまでには、ま幾日もございますけれども毎日毎日が御用から御用にお使い廻し、お互いが頂かなければいけません。もうそんならち言うて邪魔んならん風に隅のほうに引っ込んでしもうてこうと言うたんでは御用できません。そこに出過ぎらず引っ込み過ぎらずという信心がどうでも必要なんです。
昨日私の一番下の栄四郎が遊びに来ておる子供達皆が、子供人がわいわい言いよると楽しいんですね。何か刀、薪のようなものを持ってからあっち走りこっち走りしてるんです。そげなもん持って行きよると襖破ったと、そんなこっちゃない。折角一生懸命御用頂いとられる、云わば邪魔になるというて私怒ったんですけれども、私共信奉者一人一人があっち行っちゃガチャガチャ、こっち行っちゃガチャガチャでいうだけで却ってその場その場で邪魔になっておるような現在ではなかろうか。自分という者が。ほんとに持ち場立場というものでガッチリ。そこんところの御用が出来ておるのではなかろうか。昨日丁度お夕食の時に福島さんが見えとりました。
昨日一昨日からここの宗教法人の手続きの為にわざわざ芦屋まで行かれました。一日がかりで行かれました。昨日も体が悪いと言いながら御用が残っておるからと言うて見えとられました。親先生のところに挨拶に見えた時に親先生が福島さん丁度繁雄さんと二人でした。もう兎に角ここでお広前にこれだけは他の者の追従を許さない、これだけはあんたじゃなからにゃ出来んという御用を受けたまらせてもらいなさい。というて二人に言うておられました。二人が立たれたあとに親先生が福島さんなもう、そういう意味での御用はもう徹底して出来られるですね、と言うておられるのを聞いてから思うんです。確かに自分の御用、人がとやこう例えば言う場合であってもこのことだけはいい加減にされないですね。
確かにその御用をこりゃ私も感心致します。又先生が繁雄さんに言うとられます。あんたもここではこれだけはあんたじゃなきゃでけんというのが承っとるもんのと言うて、これは私に対していつも側におって奉仕されることを言うておられるのであろうと思ったんですけど。これだけは他の者の追従を許さない。これだけは私の持ち場と言う様にです、私共がそこんところの私はそのおかげを頂かしてもろうておかげを頂かせて貰わなければならない。
先日から熊本の五木からああいう大きな石が二つ来ております。それを高山さんがほんとに商売ですよね、石が置き場きちっとおいてしかもそれに植木をあしらったり、こう据えたらそれが実に生きて参りますけれどもあれがごろごろ例えば、玄関の前んどんほっぱらかしてあってごらんなさいませ、もうそれこそ、厄介なものでありいわゆる、邪魔になって仕方がないのですけども、それがちゃっとそのある場所を得た、ね。そこにちゃっとそこに据えられたところにです、それこそ堂々としてその入り口の石なんかでもそうでしょうが。あって邪魔んなるな。こげん大きな石こげんとこに置いてといったことがございませんようにです、ね。特に例えばここで総代さん幹部というような方達が大きな石と同じことです。その大きな石がそこにごろごろこちらにごろごろしておるだけでは邪魔になるのですよ。何故ってそういう人達が一言二言例えば、一言言うことは非常に響くのですよ。総代さんがこう言われたということは響くのですよ。ですから、ほんとに私は祈りに祈り願いに願っての私は例えば発言といおうか発言ひとつでもそのくらい慎重に、といって言わんがましといって引っ込んでしまったら全然御用は出来ません。如何にそのここだけはというて持ち場を立場をもってそこを信心でやらせて頂くかということが大事です。それには私が日々お取次させて頂いてから実感すること。私が私の在り方がほんとに神様と信者氏子の間にあってお邪魔になっておるようなことはなかろうか。障っておるようなことはなかろうか。汚しておるようなことはなかろうか。落ち込んでおるようなことはなかろうか。迷っておるようなことはなかろうか。というようにそこんとこの深いひとつの反省を私は持ちますようにです、そういう在り方と同時に積極的なその御用そのことをです、いい加減にしないということです。そういう私はお互いがお互いの持ち味というかお互いの在り方というものをそこに表していくというおかげを頂かなければいけません。
昨日、私お取次させて頂く中で今度お酒のお供えだけで七丁ございます。四十本にして二百八十本あります。しかも灘の特級酒とか一級酒とかというものばっかりですけども、私は申しました。それがそげんあんたしたっちゃどうする、お供えする所がなか、ね。ですか商品券に替えたらどうですかね。小さい商品券に、云わばお神酒料としてお供えなさるわけなんですね。これなら邪魔にもならん。お役にも立つ訳でしょうがね。
同時にです、昨日も親先生がおっしゃっておられましたが皆のそういうような話を聞きながら親先生がおっしゃっておられる。もうおそらく金光教が始まって以来ですね、こういう開教式をするところはここが初めてじゃろうと言われた。そりゃあそうですよね。開教式といやあ教会が始まってから、ま総代が出来た、信者が少しばかりでけたところから教会の認可があるくらいですから、ま云うならきつい時に開教式があるとです。ところがここは十何年間というそのあれがございますもんですから、さあ開教式という時には総代がでけとるだけのことじゃない。これだけの信者が既にある程度信心を分かった者が開教式にはすでに千人なら千人という信者があるのですからね。成程親先生がおっしゃるようにもうお道の信心が始まって以来こういう開教式をまあ今の模様をご覧になっただけでですね、お米どんが廊下にずらり来とる。ちから親先生が昨日言っておられます。という開教式もおそらくそういうお祭りをするといったようなことが、先ず後にも先にもないことだろうとこういう、ですから、そういう大きなお祭りを仕えるということがですよ、ここの者だけは問題ないのですけども、よそから先生方がたくさん見えるからです。そのことがかえって見えた先生方に対してからですね、怪我をなさるような場合も又考えなければならんのですよ。人間ちゃ妙なもんですよ。隣が蔵を立てるとこっちは腹を立てるといったような話がお互いにあるわけなんですよ。腹の立つような先生があるかも分からんのですよ。お酒でん何本でん来とったち言うて腹の立つ先生がないとも限らんのですよ。それでは折角の合楽の在り方そのものがです、云わば在り方全体が邪魔になるわけになりますでしょうが。ほんとに深くかんがえれば考える程それを感じます。
そこでです、信者の一人一人がです、実に謙虚に、ね。うちの御大祭をみて下さい。拝んで下さいじゃない、みて下さいといったような気持ちではなくてです、もうほんとにこういうことで相済みませんのですけれども、これだけのことをしておるのでございますから、どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。ほんとに不行き届きのことでございますけれども、お許し下さいという思いがです、ここのお広前いっぱいにあるならばです、ほんとにそういうようなものを感じさせん。成程合楽の信心はあれだけのものが生まれる、いわば生まれるからには生まれるためのもとがあるなあ、というようなものを頂いて帰ってくださるとすれば、それは有り難いことなんです。けれどもお祭りを拝まして頂いてから帰りがけには腹んたって帰ったといったような方達が、もしあるとすると、これは合楽の信心全体がお邪魔になったわけになるのです。
ね、ですからどうぞひとつ、もう幾日に控えた御大祭を、各々がです、自分が一人で仕えるということは出来ることじゃございません。ですからせめて、ここだけは例えば私は、昨日親先生がみえられたから、お夕食を客殿であげてお風呂もあちらで入って頂きました。それを私が言うてなかったもんですから、お湯が沸いていない。ひねったところが水だけしか出てこない。ね、後からお風呂ならお風呂ひとつ受け持たれる方が一人いればいいのですよ。それでお風呂だけならあなたが受け持っておいて下さるから、いつでもお風呂に入れるようにあちらの風呂もこちらの風呂もでけておるということ。バタバタするこたいらん。お風呂だけを受け持って下さればいいでしょうが。一人やって下さればいいのでしょうが。というようにひとつの例でございましょうが、ね。お風呂は沸いておるけれども石鹸がないですよといったことがないように、私はその持ち場の人が立場の人が行き届いておって下されば私は出来んことはなかろうとこう思うんですよ。ですから、そういう気持ち、同時にこれだけたくさんの人が集まってなすことでございますから、信心の薄い人、いや薄くなくても特に合楽のあたりの部落の人達は、云わばここには何回しか参ったことないといった方達が全部御用して下さるそうです。ですから、折角御用に来て下さったのにですね。高尚な信者とでも申しましょうか、もここに長い人達の言葉一つが粗かっただけでもそれが邪魔になるわけなんですよ。そのことを昨日善導寺の久保山さんがお願いなさった。霊様にお願いなさっておられた。勝手の御用を頂かにゃならんから、そしたら御心眼にはっきりキューピーマヨネーズを頂かれたそうです。
『キューピーさんというのは実に可愛らしいお人形ですね。だからお互い可愛らしいところの性根というものを持たなきゃいけないのです。私が俺がと言ったようなもんじゃなくてです、可愛らしい。これはこうですか、あ、そうですか。と可愛らしい心、云うならばマヨネーズというのは油とかサラダ油とか塩とか味の素とかいったようなものが実に調和良くあれは練り混ぜられておるのであのマヨネーズが出来るんです。もう卵の黄身がこう撹拌しただけでも昔は自分の家で作ってましたよね。ところがあれは非常に作るとが難しいです。同じ原料を使いましてもですね。混ぜ方が悪かっただけでも油、卵が離れてしまうんですよね。丁度マヨネーズのように渾然として一体となってそして可愛らしい味わいとでも云おうか、マヨネーズの味わいといったようなものが出るような心掛け、そういうことを願えよというような意味を頂いておられます。』
勝手の方の責任者として婦人総代さんとしてそういうことを神様から頂いておられるということ。だから、皆がそういうようななんともかんともいえん渾然とした有り難さというものがこの開教式、教祖大祭に現れてくるおかげを頂く為に出すぎらず、引っ込みすぎらずほんとに私のような者がというものと同時に隅の方に引っ込んどるわけではない、その持ち場立場に於いてあの大きな熊本から来たあの大きな石がです、ひとつも邪魔にならず、どころかあれが堂々としてそこんところに一つの威風を誇っておるように、ほんとにそういうおかげを頂きたいという願いとそうあらなければならないと云う願いと、その心掛けというようなものがです、大きなお祭りを奉仕させて頂くということの意味に於いてだけでも必要ではなかろうかとこう思うのでございます。ね、どうぞお邪魔になりませんように、私の存在がお邪魔になりませんように。神様の働きのお邪魔になりませんように。人に怪我をさせませんように。人を汚しませんように。人が迷いませんように、ね。人が落ちて怪我をするようなことがございませんようにと。これは私だけではない、一人一人がそういう祈りと願いの中にあれば有り難いお祭りが出来るということを思います。どうぞよろしく。そこんところは日頃の信心に云わばもの云わせておかげを頂かなければなりません。 どうぞ。